これは、1年以上ずっと下書き保存していた内容です。
発信するきっかけをくださったのは、東海新報さんです。
お話をいただいたとき、
地元の多くの人が読む新聞…
「被災していない自分が言っていいものか…」
「有識者でもないのに…」と、かなり迷いましたが
「今、言えなきゃ ずっと言えない」と
思いきって、諦めつつあった減災対策についてお話させていただきました。
すぐには できない対策かもしれませんが…。
もしも、避難のとき渋滞に巻き込まれたら、
東海新報さんの記事をご覧になった方が車を置いて避難行動してくれますように…
津波による犠牲者や悲しむ方が、一人でも減りますように…と思います。
私一人では発信することができなかった減災対策を多くの方に伝えてくださったことと、発信する勇気を下さった東海新報の記者さんに心から感謝いたします。
ありがとうございました。
目次
東日本大震災の発災直後、私は、
子どもを迎えに行く手段として、
車で行くか、徒歩で行くかギリギリまで迷っていました…
というより、迷いながら歩いて行った…という感じでした。
車の方が
「サッと行って、すぐ戻ってこれる」
ような「徒歩よりも早く帰宅できる」平時の感覚でいたからです。
ですが、発災直後の国道は大渋滞。
車は、前にも後ろにも動くことができないような状況でした。
国道45号の信号は停電。
近所の方が渋滞している車を誘導してくださっていました。
(国道45号も写真のような状態でした↓)
その後の発災直後の様子は、こちらです↓
発災直後の子ども達・先生方の様子|東日本大震災
もしもあのとき、
徒歩でなく車で移動していたら
渋滞に巻き込まれていたはずです。
危うく渋滞に巻き込まれそうになった
のは私だけではありませんし、実際、
渋滞に巻き込まれて身動きが取れなくなり、車ごと流された方も…。
あのとき、同じ場所にいたのに…
そう思うと、このことを書くことも
発信することも ためらってしまいます。
ですが、当時の様子を知っていて、
同じようなことが繰り返されるかもしれないことを予測できる人がためらっていたら…。
子どもたちや次世代の子供たちが
大人になったときに、また
同じ事が繰り返されてしまうと思うのです。
勇気を出しては発信するためには、
以下のような極端な考えに至らなければ言えません。
自分がこの世を去るとき、
やり残した防災活動の中で、
後悔すると思うものの一つが
この津波避難時の渋滞対策です。
三陸沿岸地域は津波常習地といわれています。
ですが、その地域に住んでいる住民の方でも避難する際の手段として車を選択してしまうことは少なくありません。
(そういう私も、浸水区域にいたときに津波警報がなったら、「車がなくなったら大変」「自分も車も無事に…」と迷ってしまうと思いますが…。もしも今、渋滞に巻き込まれたら、車を路肩に寄せて歩いていく方法を選択すると思います。)
高台までの移動時間、
家族構成などによって、
車でなければ避難できないご家庭もあると思います。
また、来訪者など、たまたま国道45号の津波浸水想定区域にいた方も、
「津波避難は、原則、徒歩」と聞いたことがあったとしても、すぐに車を乗り捨てるという選択と行動ができる方は少ないのではないかと思います。
津波浸水想定区域と伝える標識の情報だけで、
・具体的な被害(車ごと流される)
・その場での最善策
(とるべき避難行動、避難先)
・避難可能時間には、制限がある
(「津波到達予想時刻」まで)
などの災害時の情報が、
伝えている側と受けとる側で、
きちんと共通認識されているのだろうか…と、いつも思います。
《状況》
国道45号の浸水想定区域を走行中。
津波警報(注意報)で渋滞に巻き込まれたら…。
* *
ケース1)
国道沿いを走っていて、たまたま駐車場がすぐ近くにあったら、そこに駐車して徒歩で移動できる。
そのとき、他のドライバーにも声をかけたいが、津波到達時刻が迫っている中、一人で声掛けできるドライバーの数には限界がある。
その後、もしも震災と同じように渋滞しているところに津波が到達したら…
自分だけ助かってしまったという罪悪感を抱えることになるのでは…。
ケース2)
津波到達時刻が迫っており、路肩に車を寄せて歩いて避難しようとするが、
後続車からクラクションを鳴らされ
「こんなところに車置いたら、後ろの車が動けなくなるだろう!」と怒鳴られたら…。
興奮しているドライバーに対して、
「津波到達時間が迫っているから、
車を置いて高台に避難しよう」と
伝えられるだろうか…
理解してもらえるだろうか…。
* *
あの時の経験から、上記のようなことを想像してしまいます。
上記のようなやり取りをしている間に…
当時と同じことを繰り返してしまうのでは…というのは考えすぎでしょうか。
また、
津波警報のサイレンが大きく鳴り響いていて、多くの方が冷静さを欠いて、普段通りの判断や行動がむずかしい状況にもなります。
あわてていても、
思考がフリーズしていても
災害情報を知らせるツールが
停電で使えなくなったとしても、
電気不要でその場で、取るべき行動が
看板などで示されていたら…。
しかも看板は、平時から
目にすることができるので、
津波災害時にとるべき行動を何度でも伝えることができます。
(防災意識の維持と向上にもなってくれたら…)
もしかしたら、渋滞に巻き込まれて
亡くなられたご遺族への配慮から、
あえてこのような看板や標識をしないでいたのかもしれません。
また、対策を考えている最中かもしれませんし、避難誘導看板を設置できないルールなど、私には想像もできない事情もいろいろとあるのかもしれませんが…。
津波災害の渋滞時、
同じ県内の沿岸でも
山側に逃げられる道路がある
地域ばかりではありません。
でも、大船渡には
渋滞に巻き込まれたとしても
山側や高台に行ける道路があります。
震災後、赤崎町には、
がれき置き場となっていた場所がありました。
水没した車両も、たくさん山積みになっていました。
もちろん、その全ての車両が、渋滞に巻き込まれたものばかりではありませんが…。
大船渡町の高台から見える赤崎町を
見るたび、あの風景を思い出します。
がれき置き場の塀には、子どもたちが
書いた絵が飾られていました。
ここは、赤崎町の子ども達の通学路でもありました。
津波で校舎が浸水した赤崎町の子ども達は、スクールバスで間借り校舎がある大船渡町に通っていたからです。
子どもたちが描いた絵や言葉に、
元気をもらっていたドライバーの方は少なくなかったのではないかと思います。
もちろん、私もその一人でした。
自分や友達が描いた絵を見て、
笑顔で登下校する瞬間が一瞬でも長くなってくれたらいいな…という気持ちもありましたが、
発災直後の何もできなかったこと
震災後も何の役にも立てていない感覚、
被災した子ども達が頑張っているのに…など、やるせない気持ちもあり、
泣きながら、当時の職場に通っていたことも思い出します。
(今だから、言えることですが…)
子どもたちが、またあのような
風景を見ないように、あれくらい
大きな津波は来てほしくはないのですが…
もしもまた津波が来たときには、
避難できる時間を有効に活かし、
避難できる道路がある大船渡の
地域の地形特性を、次世代のためにも
最大限に活かしきってほしいと 心から願っています。